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自然に還りゆくものの美:海を見ていた洋楼

連載:「台湾日式建築サンポ:都市偵探の楽しい時間」
第8回

日本では、廃墟ブームが続いている。
工場、廃校、廃屋、閉園後の遊園地……。そこには人間が作り上げた秩序の代表としての建築空間と、それを無情に侵食し崩してゆく自然と時間の力が拮抗する。ひとはそこに、おのれの生の無常さを重ねるのであろうか。

しかし、台湾の旅で出会う日式建築の廃墟は、さらに複雑な要素が絡む。

そもそも欧米発祥のデザインであった洋風建築は、インドや東南アジアを経由して明治の日本に到達する間に「南洋的要素」を吸い込んできた。鎧戸やベランダなどの「熱帯のデザイン」だ。それが国内で、J・コンドル直伝の様式主義と交じり合い、和瓦や和室とともに、それがふたたび海を越えて台湾にやってきた。1895年からの50年間の日本時代の建築は、日本以上に温暖で浸潤な、つまり建築にとって過酷な土地で自然に還りつつあるといえる。

台湾でどうしても見たかったバロック式洋楼。
基隆の北西。静かな海岸。近くに町もないような金山の漁港、その海岸にせりだした丘の麓。どうしてこんなところに……と思う一角に、賴崇壁の別墅はあった。

辰野金吾を思わせるシマウマ模様の躯体。ドイツ壁と御影石の積層の優美なヨコスジに見えてうっとりする。ドリス風の丸柱に支持されたバルコニーがファサード中央に突き出し、玄関のポーチを兼ねている。コーニス(軒蛇腹)は特に豪華で、フリルのスカートのように建物の頭のラインを装飾している。

この館の主は誰であったか。
1885年生まれの賴崇壁(日本名:金山頼弘)は、金山の養豚組合長や庄長(区長のようなものか)を歴任したのちに日本に渡り、東京・大阪・広島などを視察、帰台後も台北州州議員や農會代表などを務めた、文字通り、金山を代表する人物であったという。

台湾総督府職員録系統、昭和十五年台北州州議員名簿。

彼は、自身を育み富をもたらした海に向かって、この洋館を建てたのだろう。いまは2階の床もルーフも無くなり、まるで大きな植木鉢のように巨木が天を突いている。

私は慎重に近づく。はげ落ちた外皮の下に、赤い煉瓦がのぞく。そうか、石とドイツ壁に見えた外壁は、実はイギリス積みの煉瓦造の躯体の上に、左官職人が描いた装飾であったのだ。何層にもおよぶ段々のコーニスもまた、少しずつ迫り出した煉瓦の列で出来ていて、そこに丁寧に塗られたモルタルが、この優美な陰影を作り出していたのである。窓のマグサは水平だが、煉瓦でこのラインを作るためには10枚ほどの煉瓦を楔形に削り並べる「水平アーチ」の構法でなければならない。崩れかけた後ろの窓を見ると、はたして往時の職人の苦労が表面に現れているのだった。
痛んでいなければ、きっとそんな「努力」にも気づかずにいただろう。

時間は無慈悲に仕上げを剥がし、旺盛な植物の生のエネルギーは、組積造の目地をゆっくりとゆっくりと剥がすだろう。

権威、文明、正統性。そうした概念をひとびとは建築に託した。この賴崇壁的別墅は、小規模ながら、そんな思いが強烈に凝縮した作品だった。
朽ちていく廃墟の中に、私たちはそれをかたちにした人間の思いを見ることになる。
ふたたびこの地を訪ねる時にも、この洋楼はその姿を見せてくれるだろうか。


「金山」と言えば、台湾の人は「鴨肉」の聖地だと口を揃えて言います。(説明:編集部より)

寄稿者情報

渡邉義孝
一級建築士・尾道市立大学非常勤講師。 NPO法人尾道空き家再生プロジェクト理事。東アジア日式住宅研究会会員。1966年京都府生まれ。神楽坂の鈴木喜一建築計画工房・アユミギャラリーを経て2004年「風組・渡邉設計室」設立。住宅設計の他、民家再生・文化財調査などに携わる。著書に『風をたべた日々~アジア横断旅日記』(日経BP社)。共著に『セルフビルド~家をつくる自由』(旅行人)など。

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